親睦委員会の企画、東北被災地視察レポートの続きです。
大槌町を出たわれわれ一行は、宿泊予定地の釜石に向かいました。
「釜石の奇跡」という話をバスガイドさんから聞きました。
震災時、釜石東中学校の生徒と隣接する鵜住居(うのすまい)小学校の生徒たちが、避難場所まで避難したあと、脇の崖がくずれるのを見て、自分たちの判断でさらに上に逃げて、皆無事だったとのことでした。
途中でたまたま合流した保育園児や老人の手を引いて上へ上へといったそうです。その様子はNHKでも放送されました。ちなみに、鵜住居小学校の児童は当初は、学校の3階に避難したそうです。あとで見ると、3階の窓には津波で流されてきた自動車が食いこんでいたそうです。学校に残っていたら全員が流されていたことでしょう。
(写真はクリックすると拡大します)
釜石市の中心部には夕方5時頃、日没直前に着きました。三陸海岸は日本でも日没が最も早い地域らしいです。
下の写真は、東京海上日動の釜石支社と損害センターのあったビル。看板は残っていますが、震災の跡移転してしまいました。損保ジャパンや三井住友の支社も釜石を出てしまったそうです。
個人的な話で恐縮ですが、私の妹は15年くらい前にこのビルの4階に住んでいて、私も一度来たことがあります。すぐそばの大通りはアーケードのある大きな商店街でしたが、今は店がほぼ無くなってしまったため、単なるバイパスのようになっていました。
ホテル近くの養老乃滝で懇親会をやり、意見交換。各自適度にアルコールを入れて翌朝に備えます。
翌朝、私は3時起きしてサッカー日本対フランスを見てしまったのであまり眠れませんでした。朝、ホテルの窓のカーテンを開けると奇麗な虹が!
朝食後、損保ジャパンの代理店であられる有限会社ワイズコーポレーションの佐々木社長の案内で、港に向かいます。
当初は佐々木社長の事務所でお話を聞く予定でした。しかし、社長は、私たちを連れて行きたいところがあるとのことで、急きょ予定変更。釜石の港へと向かいます。
佐々木社長の話によれば、震災当日、やっとの思いで港まで来てあまりの惨事に声を失ったそうです。これは代理業は続けられないと直観的に思ったと。津波で家を失ったご契約者様の大量の解約、地震保険支払い、震災前日の3月10日に契約いただいたばかりというフリート46台の大半の解約業務などを粛々とこなしたそうです。お客様と保険会社への義務を一切がっさい尽くした後に、やめるかどうかは考えようと・・・・
代理店魂・・・そういうことだと思います。
佐々木社長にお聞きして、平時に我々が注意しておいたほうがいいことを教えていただきました。
1.固定電話が繋がらなくなり、家も無くなっているので、とにかく連絡が取れない。携帯電話番号やメールアドレスを聞いておくこと。保険会社の損害担当社員が足りなくて、パートさんを雇うのだが、契約者からせっかく電話があっても慣れていないので受け付けしかできず、こちらから再連絡を取れないという事例が多かった。
2.ガソリンが無くなる、道路には釘や鋭利ながれきが多くタイヤがパンクする。移動しづらくなる。
3.宿泊施設が不足するため、保険会社社員は遠くに寝泊まりして通ってくる。ワイズコーポレーションは損保ジャパンの前線基地となった。いざというとき、頼りになる代理店となるよう準備する。(ある程度食料品、水などの備蓄をしておくこと)
以前、山古志村が大被害を受けた中越大地震の時は、北部支部が視察に行っており、そのときの報告で一つ覚えたことあります。大地震の時は停電が起きる。紙による契約内容の保管も大切、ということです。今回佐々木社長から得たアドバイスも心にとどめておきたいと思います。
下の写真は釜石の保険代理店主で唯一お亡くなりになった日新火災代理店の事務所のあった場所です。津波で何もかも流されてしまいました。
この日、佐々木社長がわれわれを連れてきたのがここだったのです。
我々の仲間がいた場所・・・。
黙とう
最後に佐々木社長に聞きました。復興の効果はありますか?と。
幸いにも、自動車はかなり売れており、新築の住宅や、事業用の建物も増えつつあると。それに伴い、保険契約も戻りつつあり、これからも頑張るとのことでした。このお話が聞けてよかった!と思いました。明日への元気をいただきました。
佐々木社長には、わが町田会長が、埼玉代協各員からいただいた浄財にて義捐金をお渡ししました。佐々木社長、貴重なお話を本当にありがとうございました。
レポート3へ続く